その声に気がついて見ると、杜子春はやはり夕日を浴びて、洛陽の西の門の下に、ぼんやり佇んでいるのでした。
霞んだ空、白い三日月、絶え間ない人や車の波、――すべてがまだ峨眉山へ、行かない前と同じことです。
「どうだな。
おれの弟子になったところが、とても仙人にはなれはすまい」
片目すがめの老人は微笑を含みながら言いました。
「なれません。
なれませんが、しかし私はなれなかったことも、かえって嬉しい気がするのです」
杜子春はまだ眼に涙を浮べたまま、思わず老人の手を握りました。
「いくら仙人になれたところが、私はあの地獄の森羅殿の前に、鞭を受けている父母を見ては、黙っている訳には行きません」
「もしお前が黙っていたら――」と鉄冠子は急に厳な顔になって、じっと杜子春を見つめました。
「もしお前が黙っていたら、おれは即座にお前の命を絶ってしまおうと思っていたのだ。
――お前はもう仙人になりたいという望みも持っていまい。
大金持ちになることは、元より愛想がつきたはずだ。
ではお前はこれから後、何になったらいいと思うな」
「何になっても、人間らしい、正直な暮しをするつもりです」
杜子春の声には今までにない晴れ晴れした調子がこもっていました。
「その言葉を忘れるなよ。
ではおれは今日限り、二度とお前には遇わないから」
鉄冠子はこう言う内に、もう歩き出していましたが、急に又足を止めて、杜子春の方を振り返ると、
「おお、幸い、今思い出したが、おれは泰山の南のふもとに一軒の家を持っている。
その家を畑ごとお前にやるから、早速行って住まうが好い。
今頃は丁度家のまわりに、桃の花が一面に咲いているだろう」と、さも愉快そうにつけ加えました。