基本的な知識・情報が必要
 
また、「理解力も内容の把握力も全く落とさずに、これまで同様にちゃんと読んで・・・」と書きましたが、「それでは、内容が難しくて、よく理解できない文章を読んだ場合は、速読法はいったいどうなるのだ?」という疑問を持つ人がいるかも知れません。
 
例えば、法律関係が苦手な人が法律書を読んだ時とか、理数系に弱い人が相対性理論の解説書を読んだ時はどうなるか、というようなことです。これは、それほど英語の実力がない人が英文を読もうとチャレンジした場合と、類似の状況が発生します。英文の場合には、知らない単語や熟語が出てくると、構成要素であるアルファベットは読めても、要素の集合体である文章の意味となるとチンプンカンプン、ということになります。
 
これは読み手の記憶回路の中に、その概念に関する知識や情報が欠落しているためで、こういう場合には、速読しようが、じっくり時間をかけて遅読をしようが、全く理解できないことには変わりがありません。頭の辞書ファイルに入っていないデータは、いくら入力しても意味に変換することができないのです。
 
ですから、速読法を実生活で使うとして、いくら速読能力が上達して、以前の5倍、10倍、それ以上の速度で文章が読めるようになったとしても、それだけで大学受験生が偏差値の高い大学に受かったり、あるいは突破が非常に困難とされる国家試験・資格試験に受かるかというと、そんな保証は全くない、ということです。
 
試験で合格点、高い得点を取るためには、やはり、その科目の実力・知識・情報などを十分に備えていなければなりません。ただ、速読法は受験勉強をする上でも、本番の試験で時間的余裕(それは、精神的な余裕にもつながります)を持って受けられるなど、非常に有力な武器になることは、間違いありません。
 
受験勉強をする場合には、限られた時間内で、より多くの参考書や問題集を読むことができますし、受験の本番では、より早く設問の文章を読んで最後の読み直しの時間を確保することができます。
 
そして、大学受験でも国家試験でも、一部の大学や機関では、設問自体が制限時間に比して非常に長文であって、速読能力を身につけておくことが合格の必須条件となっている例さえ出てきています。
 
情報過多時代を生きる必須条件
 
さて、なぜいろいろな試験で速読能力が合格の必須条件となるような長文が増えてきたかということですが、それは合格者を選抜する条件が変化してきたことによります。あまりに問題をやさしくしてしますと、落ちるのは全く勉強していない人間だけで、ある程度の勉強をした人間は全員が高得点をあげてしまい、差がつかなくなって、真に有能な人間を見極めることができません。
 
とはいっても、高得点を防ぐために極端に問題を難しくしてしまうと、どうしても難問・奇問にならざるを得ません。そうすると、そういう問題を解くことをマニアックにやっていた人間は受かりますが、そうでないノーマルな受験勉強をやっていた人間には、高得点があげられるかどうかに運とか偶然が作用してしまいます。
 
つまり、それほど有能でない、あるいは知能は高いけれどもオタク的で周囲との強調性に欠如した人間が、有能な人間よりも上位の得点をあげて合格してしまい、真に有能でノーマルな人間が落ちてしまう、という選抜者の意に反することが、往々にして起こります。それでは困りますから、選抜者はどういう設問は作るようにようになったかというと、内容的にはオーソドックス、難易度は中くらい、そのかわり、ベラボウんに量が多い、というように傾向を変えてきたわけです。
 
そうすると、試験時間を無制限に与えれば(よっぽど不勉強な者、実力不足の者を除いて)受験生全員が解けますが、限られた制限時間内では解ける者と解けない者のバラツキが出る、とういようになります。特にやさしくも難しくもないオーソドックスな問題を大量に迅速に解く、そのスピードが速い者を有能と判断する、というように選抜の基準を変更したのです。
 
ですから、よく、試験に落ちて、「ちょっと時間が足りなかった。せめてあと5分か10分あれば合格が確保できたのに、惜しかった・・・」という言い訳をする人がいます。事情を知らない人は、調子を合わせて、「それは惜しかったねぇ。また次の機会があるだろうから、その時に頑張りなさい」とういようなことを言って慰めたりしますが、実際問題としてそれは、惜しくも何ともないのです。


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