長文問題が難しい理由
 
具体例を挙げますと、年々、問題文が長文化している大学や高校、有名中学の入試問題、一部の、特に難しいとされる国家試験・資格試験の問題を解く場合などに、そういった現象が起きているようです。あまりにも問題文や設問が長いので、読書スピードが遅い人の場合だと、ようやく最後まで読み通したものの、最初のほうに何が書かれていたのか、ほとんど忘れてしまうか、忘れないでも、記憶が非常に曖昧になっています。
 
そこで、仕方なく最初から読み直して記憶を新たにするのですが、そうすると、時間に追われて、最後のほうの設問は、読まないで偶然の僥倖(ぎょうこう)を期待して、全くの“当てずっぽう”で選択肢を選んで回答する、というようなことになります。情報を入れる(問題文を理解する)スピードが遅いため、情報を引き出す(学習した知識によって問題を解く)ことさえも、ままならなくなってしまうでしょう。
 
こういった状況に追い込まれると、合格する確率は、ほとんど宝くじの1等を引き当てるのと同然の低さになってしまうでしょう。これに対して読書スピードが速い人の場合は、最後まで読み通した時に、まだそれほど時間が経過していないので、最初のほうに何が書かれていたのか相当に記憶が残っている状態で、すぐさま回答作業に取り組むことができます。
 
速読法のメリット
 
また読書スピードが速い人は、仮に記憶が多少はアヤフヤになっていたとしても、最初から再読するだけの余力が残されています。「自分は読むスピードが速いから、絶対に時間的に追い込まれることはない」という自覚があると、なおさら結構です。精神的な余裕から、有形無形の自信につながり、アガらない、ケアレス・ミスを犯さない、という良循環が起きてきます。
 
システマティックな訓練を受けて真の意味の速読能力を身につけた人だと、問題文を2度3度と反復読み返して設問の趣旨を正確に掴み、回答した後で、まだ時間が余っているので、さらに何度か回答経過を反復読み返し、ケアレス・ミスを犯していないかどうかチェックする、という芸当が可能になります。
 
こういった角度から考えても、頭のでき具合(時間に無関係に、ある問題を解く能力)が同じだったとしても、読書スピードに大きな差があれば、特に最近のような傾向の試験の場合、第三者の目には「まるでIQに段違いの差がある」と錯覚されるくらいの大きな差が、結果に出てしまうのです。
 
情報の収集蓄積手段としての速読法
 
ここで、本章の最初に述べてことを思い出してください。前述の「頭のできが同じ」というのは1)の「大脳の記憶回路に蓄えられている情報の量」が同じということです。しかし、それは「以前は」ということで、近代方式の試験では3)の「記憶回路に蓄えた情報を使用するために取り出す速度」が遅ければ、それは大きな得点力の差となって現れ、「頭のできの差」と見なされる、ということです。
 
さて、いくらシステマティックな訓練を受けて、人並み外れた速読能力を身につけたとしても法律面の実力が不十分であれば司法試験は受かりませんし、単語・熟語力や読解力が不十分であれば、受験の英語で合格点を確保することはできません。なぜなら、今度は最大根本の1)の「大脳の記憶回路に蓄えられている情報の量」に差があることになるからです。
 
別の言い方をすれば、「速読能力は受験においては必要条件であって十分条件ではない(合格を保証するものではない)」ということです。速読法の修得だけで難関の試験にパスしようと考えるのは「本末転倒」です。合格を十分条件とするためには、合格に必要な学力をつける、脳の記憶回路に情報(知識)をインプットする段階で、速読学習法を活用しなければなりません。


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